遺産分割協議は、いったん成立すると簡単には覆せません。相手が約束を守らなくても解除はできず、やり直すには相続人全員の合意が必要です。だからこそ、サインする前に、確認を済ませておく必要があります。判を押す前に、①その場でサインしない、②不動産の簡易査定書を取る、③預金の取引明細書を3年ほどさかのぼって確認する。この3つだけで、「もめないだけの不公平な相続」を避けやすくなります。
相続人は二人兄弟。母が亡くなり、主な遺産は実家の土地建物だけでした。数か月後、兄が依頼した行政書士から、遺産分割協議書と相続登記の書類が届きます。内容は、実家は兄が取得し、弟に1500万円を支払うというもの。金額の根拠を尋ねると、固定資産税評価額が3000万円だから、その半分だといいます。
法定相続分どおりの半分。数字だけ見れば公平にも思えます。問題は、その「3000万円」を前提にしていいのかどうかです。
サインした後では、やり直しがほぼできない
遺産分割協議書に相続人全員が署名押印すれば、協議は成立します。そして、いったん成立した協議を後から覆すのは、極めて難しいのが現実です。
最高裁は、相続人の一人が協議で決めた義務を果たさなくても、債務不履行を理由に協議を解除することはできないとしています(最判平成元年2月9日)。一方で、相続人全員が合意すれば、協議のやり直し(合意解除・再分割)はできます(最判平成2年9月27日)。つまり、遺産分割をやり直せるのは、原則として、全員がうんと言ったときだけです。しかし、有利な内容で遺産を取得した相続人が、自分に不利なやり直しに応じてくれることは、まず期待できません。
遺産の評価額を誤解して遺産分割を成立させた場合に、錯誤(民法95条)による取消しを主張する道も、理屈のうえではあります。ただ、認められる要件は厳しく、あてにできる救済方法ではありません。
だからこそ、遺産分割協議書の確認は、サインする前に済ませておく必要があります。
やるべきこと1:届いた相続の書類にすぐにサインしない
「相続手続に必要な書類です」という添え状とともに、署名押印欄と印鑑証明書の案内だけが送られてくる。行政書士や司法書士の名前が入っていると、それだけで正しい内容だと思い込みがちです。
ここで思い出してほしいのは、専門家が作った書類でも、依頼したのは相手方の相続人だということです。書類の体裁が整っていることと、分け方の前提が公平であることは、別の話。冒頭のケースで確認すべきだったのは、「実家は本当に3000万円なのか」でした。
遺産分割で不動産を評価する基準は時価です。固定資産税評価額は固定資産税を課税するための基準で、一般に時価の7割程度を目安に設定されているため、時価より低いことが多いといえます(地域や物件により幅があります)。仮に実家の時価が4500万円なら、半分は2250万円。750万円の差が、サインひとつで確定してしまいます。
急ぐ理由が添えられていても、署名押印は待って構いません。遺産分割協議書などの相続の書類は、内容に納得してから返送するものです。
やるべきこと2:不動産の簡易査定書を2〜3社から取る
時価を知る手がかりとして使いやすいのが、不動産業者の簡易査定書です。売却の予定がなくても無料で作成してもらえますし、遺産分割調停でも評価の参考資料としてよく使われます。
1社だけだと、査定の前提条件によって数字がぶれます。2〜3社から取得して、その平均あたりを目安にすると、それなりに客観的な水準が見えてきます。
| 資料 | 性質 | 遺産分割での位置づけ |
|---|---|---|
| 固定資産税評価額 | 固定資産税の課税基準 | 時価より低いことが多く、そのまま前提にしない |
| 相続税評価額(路線価等) | 相続税の課税基準 | 同上。税理士の計算=分割の基準ではない |
| 不動産業者の簡易査定書 | 売却を想定した市場価格 | 無料。2〜3社の平均で時価の目安をつかむ |
| 不動産鑑定士の鑑定 | 法的手続でも通用する評価 | 費用がかかるため、争いが深まった段階の選択肢 |
気をつけたいのは、自分が取った査定額を絶対視しないことです。相続実務では、双方が自分に有利な数字に固執して評価の合意ができず、協議全体が止まってしまうケースをよく見ます。相手の資料にも目を通しながら、どこで折り合えるかを探ったほうが、結果として早く解決することが少なくありません。
やるべきこと3:預金の取引明細書を3年ほど遡って確認する
遺産目録に記載された預金残高は、「いま残っている額」でしかありません。生前にいくら動いたかは、残高からは見えない。ここを確認しないままサインするのは、遺産の全体像を知らずに分け方だけ決めるのと同じです。
たとえば、亡くなる前の数か月間に、同居していた相続人が預金を合計1000万円引き出していたとします。残った100万円を法定相続分で分けて、公平といえるでしょうか。引き出しの存在を知っていれば、生前贈与や使い込み(使途不明金)として清算を求める話になったはずです。
確認の方法は難しくありません。金融機関から、被相続人名義の口座の取引明細書を取り寄せます。相続人であれば単独で請求できますし、さかのぼる期間は3年ほどがひとつの目安です。多額の出金が見つかったら、まず引き出した相続人に事情を尋ねる。説明に納得できなければ、その分を遺産分割に反映させる交渉へと進みます。
もっとも、過去の出金の調査には限界があります。10年以上前の取引明細書は保存期間の関係で取得できないことが多く、過去のお金の流れをすべて解明できるわけでもありません。どこまで遡り、どこで割り切るか。ここで無理に粘らないことも、揉めずに終えるためには必要です。
「申告期限に間に合わない」と急かされたら
遺産分割協議へのサインを急がせる決まり文句が、相続税の申告期限です。10か月の期限はたしかにありますが、遺産分割がまとまっていなくても、法定相続分で計算した未分割の申告はできます。申告期限を理由に、評価額の調査や分割方法の検討をしない理由はありません。
急かされたときほど、なぜ相手が急ぐのかを考えてみてください。内容に自信のある遺産分割協議書であれば、相手は待てるものです。

