法定相続分は、家庭ごとの事情を反映する前の「出発点」にすぎません。一部の相続人への多額の生前贈与は特別受益として、介護などの特別な貢献は寄与分として、相続分の計算に反映できます。ただし、どちらも自分から主張しなければ計算には入りません。一方で、法と証拠の裏づけなく主張すると、争いが長引くだけに終わることもあります。協議書への署名を求められているなら、押印の前に、証拠の確保と見通しの検討から始めてください。
相談者は二人姉弟の姉にあたる方でした。晩年の母と同居し、最後の3年は仕事を減らして在宅介護を続けてきたといいます。四十九日が過ぎたころ、弟から「遺産は法律で決まった割合どおり、半分ずつにしよう。それがいちばん公平だ」と切り出されました。弟が開業のときに母から1,000万円の援助を受けていたことを持ち出すと、「昔の話だ。法律どおりと言っているのに、何が不満なんだ」と取り合わないそうです。
「法定相続分どおりに分けるのが法律のルール」という誤解
「法律で決まった割合なのだから、従うしかない」。遺産分割のご相談で、この思い込みを口にされる方は少なくありません。相手方の依頼した専門家が作った遺産分割協議書に「法定相続分どおり」と書かれていると、なおさら反論しにくくなります。
しかし、法定相続分は「必ずこの割合で分けよ」という命令ではありません。相続人全員が合意すれば、割合はどのようにでも決められます。
しかも、法律では、法定相続分をそのまま当てはめると不公平になる場面を想定して、修正の仕組みを2つ用意しています。生前贈与を清算する特別受益と、貢献に報いる寄与分です。
冒頭のケースでいえば、弟への開業資金1,000万円と、姉の3年間の在宅介護。どちらも「昔の話」「家族として当然」で消えるものではなく、相続分を計算し直す材料になります。
本来の基準は「具体的相続分」
特別受益と寄与分を反映した後の取り分を、具体的相続分と呼びます。遺産分割の協議や調停で目指す本来の基準は、法定相続分ではなくこちらです。
金額の差は小さくありません。遺産6,000万円・姉弟2人の例で、弟への生前贈与1,000万円を持ち戻すだけで、姉の取り分は3,000万円から3,500万円に変わります。介護の寄与分が認められれば、差はさらに開きます。
ただ、具体的相続分は、黙っていても誰かが計算してくれるものではありません。協議・調停・審判の場で自分から主張し、裏づけを示して、初めて計算に反映されます。
実務でも、「法定相続分どおり」の遺産分割協議書の多くは、特別受益や寄与分を検討した形跡のないまま作られています。作った側に悪意があるとは限りません。主張する人がいなかった、それだけのことです。
「昔の話だ」「家族として当然だ」は、実際どこまで通るか
特別受益や寄与分を主張すると、相手からは決まった言い分が返ってきます。これがどこまで通るかは、感覚ではなく法律で決まります。
「昔の話だ」は、誤りです。 特別受益の持戻しに、贈与の時期そのものの制限はありません。20年前の開業資金でも対象です。相続税の計算で生前贈与を足し戻すのは死亡前の一定期間(改正により段階的に7年へ延長)に限られますが、あれは税金のルールであって、遺産分割の持戻しとは別物です。
「家族として当然だ」は、半分正しいことがあります。 寄与分には、通常の扶養の範囲を超える「特別の寄与」が必要です。同居して家事や身の回りの世話をした、という程度では認められにくいのが実情で、仕事を減らして常時介護にあたった、施設費や医療費を負担した、といった水準がひとつの目安になります。介護をした側の「報われるべきだ」という気持ちがそのまま金額になるわけではありません。
つまり、相手の言い分にも、こちらの言い分にも、感覚と法律のずれがあります。ずれたまま主張をぶつけ合うと、争いだけが深まって、結論は変わらないということになりかねません。だからこそ、先に見通しを立てる必要があります。
「相続税の申告期限が迫っている」と急かされたら
遺産分割協議書へのサインを急がせる決まり文句が、相続税の申告期限です。期限があるのは事実で、相続の開始があったことを知った日の翌日から10か月以内です。
ただ、この期限までに済ませなければならないのは相続税の申告であって、遺産の分け方の合意ではありません。遺産分割がまとまっていなくても、法定相続分で計算した未分割の申告はできます。配偶者の税額軽減や小規模宅地等の特例が使えないといった不利益があるため、申告期限までに間に合うのがベストですが、少なくとも「期限があるから」という理由だけで、納得できない遺産分割協議書にサインする必要はありません。
むしろ怖いのは、内容をよく検討せず、慌ててサインしてしまう方です。遺産分割協議は、いったん成立すると、相続人全員の合意がない限り、原則としてやり直せません。有利な内容で取得した相続人が応じることは期待しにくく、錯誤による取消し(民法95条)も要件が厳しく、あてにできる方法ではありません。
分けられる遺産を先に分ける一部分割を駆使するなど、対応策はありますので、納得できない部分や不明確な部分がある場合には、申告期限を理由に慌ててサインをする必要はありません。
特別受益・寄与分を反映させる進め方
ステップ1:証拠を確保・検討する
特別受益や寄与分を遺産分割に反映させるためには、証拠が必要です。
特別受益であれば、被相続人名義の預金取引履歴、不動産の登記記録、贈与税の申告内容などが証拠となります。
寄与分であれば、要介護認定の資料、介護日誌やヘルパー利用の記録、施設費・医療費を自分の口座から支払った履歴などが証拠となります。
証拠がないままこだわると、争いになりやすいだけでなく、長期化し、相続税の申告期限に間に合わなくなったり、審判で誰も望まない分け方になったりします。前のめりで主張する前に、まずは証拠を確保・検討し、正確な見通しを立てることが重要です。
ステップ2:具体的相続分を数字で示す
「不公平だ」ではなく、「この贈与を持ち戻すと取り分はこうなる」という計算を書面で示します。根拠が明確なら、相手も専門家に確認したうえで、応じる方向に傾くことが少なくありません。
ステップ3:正確な見通しを立てた上で、早期の合意を目指して交渉する
法と証拠に基づいて正確な見通しを立てれば、審判になった場合の結論を先取りできます。その上で交渉すれば、通らない主張に時間を使わずに済みますし、相続税の申告が必要な相続であれば、申告期限内に合意して特例を使うことも視野に入ります。感情的な対立が浅いうちにまとめることも、それ自体に価値があります。
ステップ4:話し合いで動かなければ、調停に移行する
話し合いが平行線のまま時間だけが過ぎるなら、遺産分割調停を申し立てます。調停に移行すると、特別受益や寄与分は「いつ・いくら・何のための贈与か」「どのような貢献か」を資料で特定して主張することになり、感情の応酬から争点が切り離されます。事前に正確な見通しを立てておけば、交渉の時と同様、不毛な長期化を避けることができます。

