認知症でも遺言は有効になるか──遺言内容の単純さから遺言能力を認めた事例|東京地判令和6年5月27日

判例のポイント

アルツハイマー型認知症と登録された約1か月半後に作成された公正証書遺言について、東京地方裁判所は遺言能力を認め、遺言は有効と判断しました。判決は、遺言能力は完全な認知機能を備えていなくても、遺言内容を具体的に決定してその法律効果を弁識するのに必要な判断能力があれば足りるとした上で、本件遺言が全財産を一人の相続人に相続させるという単純な内容であったことを重視しています。認知症の診断や登録があることと遺言が無効になることとは直結せず、遺言能力は遺言内容との関係で個別に判断されることを示した事例です。

目次

判例情報

  • 裁判所:東京地方裁判所
  • 判決日:令和6年5月27日
  • 事件番号:令和5年(ワ)第2611号
  • 関連条文:民法963条

事案の概要

本件は、アルツハイマー型認知症と登録された後に、全財産を二女に相続させる旨の公正証書遺言を作成した母について、その死後、長女が遺言能力の欠如などを理由に遺言の無効確認を求めた事案です。

なお、本件訴訟では、二女が被相続人の生前に払戻しを受けた預貯金等を巡る遺産確認請求も併せて争われていますが、本記事では遺言の有効性(遺言能力)の争点を取り上げます。

登場人物

  • 被相続人:昭和4年生まれの女性。XとYの母。令和3年12月1日死亡。
  • X(原告):被相続人の長女。
  • Y(被告):被相続人の二女。

相続人はXとYの2名のみです。

時系列

  • 平成25年10月:被相続人がXとの間で任意後見契約を締結
  • 平成25年11月:旧遺言1を公正証書で作成(Yを相続人から廃除する内容)
  • 平成26年12月:旧遺言2を公正証書で作成(旧遺言1を撤回し、財産をX・Yにおおむね2分の1ずつ相続させる内容)
  • 平成27年1月:被相続人がXとの任意後見契約を解除
  • 平成27年4月:物忘れを主訴に総合病院を受診。認知機能検査で注意力の低下、流暢性の悪さ等を指摘される
  • 平成27年10月:被相続人がYとの間で任意後見契約を締結
  • 平成28年2月:再受診。認知機能の低下の進行、理解力・判断力の低下から混乱しやすく適切な行動が取れないこと等を指摘される
  • 平成28年5月8日:アルツハイマー型認知症との登録
  • 平成28年6月27日:本件遺言(公正証書遺言)を作成。遺産を全てYに相続させる内容
  • 令和3年12月1日:被相続人死亡
  • 令和5年:Xが遺言無効確認等を求めて提訴
  • 令和6年5月27日:東京地方裁判所が判決(Xの請求をいずれも排斥)

経緯

被相続人は昭和4年生まれの女性で、長女Xと二女Yの2人の子がいました。平成25年10月、被相続人はXとの間で任意後見契約(判断能力が低下した場合に備えて、後見人になる人をあらかじめ契約で決めておく制度)を締結し、翌11月には、Yを相続人から廃除する(相続資格を奪う)旨の公正証書遺言(旧遺言1)を作成しています。旧遺言1には、Yから頻繁に金員を要求されるなどの著しい非行があったことが廃除の理由として記載されていました。

ところが約1年後の平成26年12月、被相続人は旧遺言1を撤回し、不動産を X・Yに2分の1ずつ、預貯金も債務や葬儀費用等を控除した残金を2分の1ずつ相続させ、Yを遺言執行者に指定する旨の公正証書遺言(旧遺言2)を作成しました。さらに平成27年1月にはXとの任意後見契約を解除し、同年10月には、今度はYを任意後見人とする任意後見契約を締結しています。

この間、被相続人の認知機能には低下の兆候が現れていました。平成27年4月には物忘れを主訴として総合病院を受診し、認知機能検査で注意力の低下や流暢性の悪さ等を指摘されています。平成28年2月の受診では、認知機能の低下の進行に加え、理解力及び判断力の低下から混乱しやすく適切な行動が取れないこと等が指摘され、同年5月8日にはアルツハイマー型認知症との登録がされました。

その約1か月半後の平成28年6月27日、被相続人は、従前の遺言を全て撤回する、遺産を全てYに相続させる、Yが被相続人より先に死亡した場合にはYの長男に相続させる、Yを祭祀承継者(墓や仏壇などを引き継ぐ者)とする等の内容の公正証書遺言(本件遺言)を作成しました。Yの廃除から、2分の1ずつの分配を経て、全財産をYへ──遺言の内容は約2年半の間に大きく変遷したことになります。

被相続人は令和3年12月1日に死亡し、XとYが相続人となりました。Xは、本件遺言は判断能力を失った被相続人がYの意のままに操られて作成されたものであるなどと主張して、遺言無効確認等を求める本件訴訟を提起しました。

争点

アルツハイマー型認知症と登録された後の遺言は、遺言能力を欠き無効か

──認知症の診断や登録という事実があれば、遺言能力(遺言の内容を理解し、その法律上の結果を判断する能力)の欠如は当然に導かれるのか。それとも、遺言能力の有無は、その遺言の内容との関係で個別に判断されるのか。これが本件の本質的な問いです。

X側の主張:被相続人は本件遺言をした当時、アルツハイマー型認知症に罹患していた。本件遺言の内容は、理解力や判断力が低下している者にとっては複雑極まりないものである。しかも本件遺言は、既にYの意向に沿う内容の遺言がされていたにもかかわらず、これを撤回して全財産をYに遺贈する内容のものである。これらによれば、本件遺言は、判断能力を失った被相続人がYの意のままに操られて作成されたものであり、無効である。

Y側の主張:被相続人に本件遺言時に遺言能力がなかったとの主張は否認する。

判決文上、Y側の主張は端的な否認にとどまっており、具体的な反論の内容は記載されていません。なお、Xは、訴訟の途中で、詐欺又は錯誤を理由に本件遺言を取り消すとの意思表示もしており、この点も併せて判断されています。

裁判所の判断

判旨の要約

  • 結論:被相続人が本件遺言時において遺言能力を欠いていたとは認められず、遺言無効の主張は理由がない。
  • 理由:遺言能力は、完全な認知機能を備えていなくても、遺言内容を具体的に決定してその法律効果を弁識するのに必要な判断能力があれば足りるところ、本件遺言の内容は遺産を全てYに相続させるなどという単純なものであったから。

判決文の引用

東京地裁はまず、受診時の指摘やアルツハイマー型認知症の登録の事実から、被相続人が本件遺言をした際に「認知機能の低下が見られたことが認められる」と、認知機能の低下自体は正面から認定しました。その上で、次のように判示しています。

しかし、遺言能力は、完全な認知機能を備えない限りこれが認められないというものではなく、遺言内容を具体的に決定してその法律効果を弁識するのに必要な判断能力を備えていれば足りるというべきところ、上記のとおり、被相続人は、注意力の低下、流暢性の悪さ等が指摘されていたが、本件遺言の内容は遺産を全て被告に相続させるなどという単純なものであること等に照らすと、被相続人が本件遺言時において遺言能力を欠いていたとは認められない。

判例の考え方

本判決の論理は、次の3段階で整理できます。

第1に、認知機能の低下の認定と、遺言能力の判断との切り分け。裁判所は、医療記録上の指摘やアルツハイマー型認知症の登録から、遺言時に認知機能の低下があったこと自体は認めています。その上で、認知機能の低下がそのまま遺言能力の欠如を意味するわけではない、として判断を先に進めました。認知症の診断や登録という事実は、遺言無効の結論に直結しないという扱いです。

第2に、遺言能力の判断基準。判決は、遺言能力について「遺言内容を具体的に決定してその法律効果を弁識するのに必要な判断能力」があれば足りる、完全な認知機能までは要らない、という基準を示しました。この基準の中に「遺言内容を」という言葉が入っている点が重要です。必要とされる判断能力の程度は、その遺言の内容がどれだけ複雑かによって変わってくることが、基準そのものに織り込まれています。

第3に、本件遺言の単純さ。X側は本件遺言の内容を「複雑極まりない」と主張しましたが、裁判所は「遺産を全て被告に相続させるなどという単純なもの」と評価しました。全財産を一人の相続人に相続させるという内容は、配分の計算も条件もない、遺言として最も単純な類型の一つです。注意力の低下等が指摘されていた被相続人にも、この程度の内容を決定し、その効果を理解する能力はあった、というのが結論です。

加えて、Xが訴訟中にした詐欺又は錯誤による取消しの主張についても、裁判所は、遺言内容が数回にわたり変更されたという本件遺言の作成経緯等を踏まえてもなお、被相続人が詐欺又は錯誤により本件遺言をしたとは認められないとして排斥しました。遺言の内容が短期間に大きく変遷したという事実それ自体からは、詐欺や錯誤があったとまでは推認できない、という処理です。

結論に至る処理

以上により、本件遺言は有効とされ、遺言無効確認請求は棄却されました。なお、本件訴訟で併せて求められていた遺産確認請求のうち、遺産であることに争いのない不動産・預貯金の部分は、確認の利益(判決で確認してもらうだけの法律上の必要性)を欠くとして却下され、Yが払戻しを受けた預貯金に係る不当利得返還請求権が遺産に当たるとの主張も認められず、Xの請求は全部排斥されています。

判例の射程

本判例の射程について、判決文の表現に即して整理します。

認知症の診断・登録があっても、遺言能力は直ちに否定されない

本判決は、認知機能の低下を認定した上で、なお遺言能力を肯定しました。アルツハイマー型認知症の登録という事実それ自体が遺言を無効にするわけではない、という判断です。もっとも、本判決は認知症であれば常に遺言が有効になると述べたものでもありません。あくまで「遺言内容を具体的に決定してその法律効果を弁識するのに必要な判断能力」の有無を、個別の事案ごとに判断する枠組みです。

「単純なものであること等に照らすと」という限定

有効の結論を支えた中心的な事情は、本件遺言の内容が単純であったことです。判決文は「単純なものであることに照らすと」としており、単純さ以外の事情も総合考慮の対象としていますが、その他の具体的事情は判決文上明示されていません。したがって、複数の相続人への細かな配分、条件や負担の付いた処分など、内容が複雑な遺言について、本判決と同じ結論が当然に導かれるわけではありません。

本件で認定された医学的事実を前提とする事例判断

本判決が認定した医学的事実は、受診時の指摘事項(注意力の低下、流暢性の悪さ、理解力・判断力の低下等)とアルツハイマー型認知症の登録です。本判決は、これらの認定を前提としてもなお遺言能力を肯定した事例判断であり、これと異なる程度・内容の医学的事実が認定される事案に、本判決の結論がそのまま及ぶものではありません。

詐欺・錯誤の判断は作成経緯を踏まえた事例判断

詐欺又は錯誤の点について、判決は、遺言内容が数回にわたり変更されたという作成経緯等を踏まえても認められないとしました。これは本件の経緯を前提とした判断であり、遺言の変遷がある事案で常に詐欺・錯誤が否定されるという趣旨まで読み取ることはできません。

実務での使い方

本判例は、認知症の診断や登録のある遺言者がした遺言の有効性が争われる場面で参照される裁判例です。遺言の有効を主張する側にとっては、診断の存在だけでは遺言は無効にならないことを示す材料となり、無効を主張する側にとっては、何をどこまで立証しなければならないかを測る物差しになります。相続案件における使いどころを整理します。

使える場面

典型は、本件のような子の一人に全財産を相続させる遺言を巡って、遺言で財産を受け取れない側の相続人が遺言無効確認訴訟を提起する場面です。遺言者が晩年に認知症と診断されていたという事案は争族の中でも特に多く、遺言能力の有無が正面から争われます。本判決は、その際の判断の進め方──医療記録から認知機能の状態を認定した上で、遺言内容と突き合わせ、その内容を決定し法律効果を弁識する能力があったかを判断する──を具体的に示しています。

遺言の無効を主張する側

第1に、診断名や登録の事実だけでは足りないことを前提に立証計画を立てる必要があります。本件では、遺言の約1年2か月前から認知機能低下の指摘が積み重なり、約1か月半前にアルツハイマー型認知症の登録があったという時系列でも、遺言は有効とされました。診断・登録と遺言との時間的近接性は出発点にすぎず、遺言時点において遺言内容を決定しその法律効果を弁識する能力が欠けていたことを、医療記録の具体的な記載内容から示すことが求められます。

第2に、遺言内容の複雑さを具体的に主張することです。判断基準が遺言内容との関係で組み立てられている以上、対象となる遺言が単純か複雑かは結論を左右します。本件でX側は「複雑極まりない」と主張しましたが、全財産を一人に相続させるという中核部分の単純さの前に排斥されました。逆にいえば、配分が細かく分かれている、条件や負担が付いているなど、遺言の内容自体が高度な判断を要求する事案では、同じ認知機能の状態でも遺言能力が否定される余地は相対的に大きくなると考えられます。

第3に、誘導の主張は具体的事実で支えることです。「操られて作成された」という主張は、本件のように遺言内容の変遷を主な根拠とする限り、詐欺・錯誤の構成によっても採用されませんでした。誰が、いつ、どのように遺言の作成に関与し、遺言者の意思形成にどのような影響を与えたのかを示す具体的事実の立証が必要です。

遺言の有効を主張する側

第1に、認知機能の低下を全面的に争う必要はないことを押さえます。本判決は認知機能の低下を認定した上で遺言能力を肯定しており、医療記録上の指摘を正面から受け止めつつ、遺言内容との関係では必要な判断能力があったと主張する道があります。

第2に、遺言内容の単純さを具体的に指摘することです。本件のように全財産を一人に相続させる内容であれば、その単純さ自体が有効性を支える中心的な事情になります。

第3に、本件の遺言は公正証書遺言でしたが、公正証書遺言であっても遺言能力は別途争われ得ることは本件の経過からも分かります。公正証書であることに安心せず、遺言作成当時の遺言者の状態を示す資料を残しておくことが、後の紛争への備えになります。

立証上のポイント

中心になるのは医療記録の時系列での整理です。本件で裁判所は、受診日ごとの指摘内容と認知症登録の時期を順に認定した上で、遺言日との関係で遺言能力を判断しています。受診日、指摘内容、診断や登録の時期、遺言作成日を一覧にし、遺言時点の判断能力の程度を時系列で示すことが、どちらの立場でも立証の土台になります。

その上で、遺言内容の分析を加えます。条項の数、配分の複雑さ、撤回条項や予備的な定め(本件でいえば、Yが先に死亡した場合にはYの長男に相続させるとの定め)の有無などを整理し、その遺言が遺言者にどの程度の判断を要求する内容だったのかを論じます。本判決の判断基準は遺言内容との対応関係で組み立てられているため、医療記録と遺言内容の両方を分析して初めて、主張がかみ合います。

併せて検討すべき周辺論点

遺言無効の主張が認められない場合に備えて、遺留分侵害額請求(遺言によっても奪えない最低限の取り分を、金銭で請求する制度)の検討が欠かせません。本件のように子2名のうち一方に全財産を相続させる遺言では、他方の子に遺留分(本件の相続人構成では遺産の4分の1)が残ります。令和元年7月1日施行の相続法改正により、遺留分の権利行使は金銭請求(遺留分侵害額請求)に一本化されており、相続開始が令和3年である本件のような事案には改正後の制度が適用されます。遺留分侵害額請求権は、相続の開始及び遺留分を侵害する贈与又は遺贈があったことを知った時から1年で時効にかかるため、遺言無効を争う場合でも、並行して遺留分侵害額請求の意思表示をしておくのが実務の基本です。

また、本件では、被相続人の生前にYが払戻しを受けた預貯金等について、不当利得返還請求権が遺産に当たるかも別の争点として争われています(結論はいずれも否定)。認知症の親の財産管理を一部の子が担っていた事案では、遺言の有効性と預貯金の使途の問題が同時に争われることが多く、両者を併せた紛争の全体像の中で方針を立てる必要があります。

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