遺産分割協議のやり直しはできるか──遺産の全容を知らないままなされた協議を無効とした事例|東京地判平成27年4月22日

判例のポイント

遺産分割協議は、遺産の全容を知らないまま協議書に署名していた場合、要素の錯誤(改正前民法95条)により無効となることがあります。本判決は、相続人の一人が文面を作成した協議書に記載のない計4,330万円の預貯金の払戻しと6銘柄の株式の存在が後から判明した事案で、先行する訴訟で無効が確定していた最初の協議と「同様の錯誤」が、その直後に作られた二通目の協議書にも及ぶとして、二通目の遺産分割協議も無効と判断しました。遺産を管理する相続人が用意した協議書に、遺産の全体像を確かめられないまま署名してしまった、という争族の典型場面で参考になる裁判例です。

目次

判例情報

  • 裁判所:東京地方裁判所
  • 判決日:平成27年4月22日
  • 事件番号:平成25年(ワ)第8188号
  • 関連条文:改正前民法95条(錯誤)、民法907条(遺産分割の協議)

事案の概要

本件は、二男が母の遺産の全容を明らかにしないまま文面を作成した遺産分割協議書に、長男・長女が署名してしまった事案です。協議書に記載のない多額の預貯金の払戻しや株式の存在が後から判明し、最初の協議書(別件遺産分割協議)は先行する訴訟で錯誤により無効と確定しました。本件では、それと同じ日付で作成された二通目の協議書(本件遺産分割協議)の効力などが争われました。

登場人物

  • A(父・被相続人):目黒の自宅土地建物を所有。平成元年10月28日死亡。
  • B(母・被相続人):Aの妻。預貯金、12銘柄の株式、賃貸アパート(杉並の建物)の持分等を保有。平成17年7月30日死亡。
  • X1(長男・原告):Bの共同相続人。
  • X2(長女・原告):Bの共同相続人。別件協議書の作成当時、夫の仕事の関係で海外に長期間在住。
  • Y(二男・被告):Bの共同相続人。両親と同じ敷地内に自宅を建てて生活し、Bの死後はその遺産を管理。各協議書の文面を作成した。

時系列

  • 平成元年10月28日:A死亡
  • 平成2年4月16日:Aの遺産につき、B・X1・X2・Yの4名で遺産分割協議(目黒の土地・建物は法定相続分どおりに取得、預貯金・現金等はBが取得)
  • 平成17年7月30日:B死亡(相続人はX1・X2・Yの3名)。Yは、Bの死亡の直前までにB名義の預貯金計3,360万円を、死亡後にも計970万円を払い戻していた
  • 平成18年5月24日付:別件遺産分割協議書を作成(Yが税理士に依頼して文面を作成し、X1・X2が署名捺印)
  • 平成18年5月24日付:本件遺産分割協議書を作成(実際の作成は別件協議書の後間もなく。目黒の建物と杉並の建物のA名義持分4分の1をYが相続する内容)
  • 平成18年7月:各協議書に基づき、杉並の土地・建物や目黒の土地のB名義持分等について相続登記
  • 平成21年3月23日:X1・X2が遺産分割調停を申立て(Yは別件協議の存在を理由に応じず)。その後の調査で、Yによる計4,330万円の払戻しが判明
  • 平成21年11月30日:X1・X2が別件遺産分割協議の無効確認訴訟(別件訴訟)を提起。さらに、協議書に記載のない株式の存在も判明
  • 平成23年12月27日:東京地方裁判所が別件遺産分割協議の無効を確認する判決(その後確定)
  • 平成24年10月31日:X1・X2が再度の遺産分割調停を申立て(Yが目黒の土地の生前贈与を主張して応じず)
  • 平成25年:X1・X2が本件訴訟を提起
  • 平成27年4月22日:本判決

経緯

A・B夫婦の二男であるYは、結婚後も両親と同じ敷地内に自宅を建てて暮らしていました。Bは平成17年7月30日に死亡しましたが、Yは、その直前から死亡日までの間にB名義の預貯金計3,360万円を、死亡後にも計970万円を払い戻していました。

Bの相続税の申告期限を控えた平成18年5月頃、Yは税理士に依頼して別件遺産分割協議書の文面を作成し、X1・X2に示して署名捺印させました(X2は海外在住中で、送付を受けて署名捺印しています)。その内容は、X1が株式1銘柄と預金約420万円、X2が目黒の土地の持分6分の1と株式2銘柄・預金150万円を取得し、Yが目黒・杉並の各不動産の持分の大半、株式2銘柄、現金・預貯金約848万円を取得するというもので、さらに「Bのその他の財産はすべてYが取得する」という趣旨の条項が置かれていました。

その後間もなく、Yは司法書士から、別件協議書だけでは目黒の建物と杉並の建物の全部についてY名義の相続登記ができないと指摘されます。そこでYは、目黒の建物と杉並の建物のA名義持分(4分の1)をYが相続する旨の本件遺産分割協議書を、別件協議書と同じ平成18年5月24日付で作成し、X1・X2に署名捺印させました。

ところが、X1・X2は、その後、Bには他にも預貯金や株式があったのではないかと考えるようになります。Yに遺産の開示を求めても応じてもらえなかったため、平成21年3月に遺産分割調停を申し立て、B名義の預貯金を調査したところ、YがBの死亡前後に計4,330万円もの預貯金を払い戻していたことが明らかになりました。さらに株式を調べると、協議書に記載されていた5銘柄のほかに、Bが6銘柄の株式を保有していたことも判明します。

X1・X2は、平成21年11月、別件遺産分割協議の無効確認を求める別件訴訟を提起しました。東京地方裁判所は平成23年12月27日、X1・X2には、Bの遺産のうち「大きな比重を占める預貯金や株式等の一部が記載されていないことに気付かなかった錯誤」があり、このことはYにも「表示されていた」として、別件遺産分割協議の無効を確認する判決を言い渡し、この判決は確定しました。

無効の確定を受けて、X1・X2は平成24年10月、改めて遺産分割調停を申し立てましたが、今度はYが目黒の土地の2分の1をAから生前贈与されたと主張して応じなかったため、X1・X2は本件訴訟を提起しました。本件では、二通目の協議書である本件遺産分割協議の無効確認のほか、目黒の土地のB名義持分がBの遺産であることの確認や、Yが払い戻した預貯金等の不当利得返還も請求されています(本稿では、このうち本件遺産分割協議の錯誤無効の論点を取り上げます)。

争点

二通目の遺産分割協議(本件遺産分割協議)にも、錯誤があったといえるか

──遺産の全容を知らないまま署名した遺産分割協議書は、錯誤を理由に効力を否定できるか。最初の協議の無効はすでに確定しているところ、登記のために作られた二通目の協議書についても、同じ錯誤があったといえるかが争われました。

X側(X1・X2)の主張:別件・本件の各協議を行った後、両協議書に記載のない4,000万円を超える預貯金と2,400万円相当の株式の存在が判明した。本件遺産分割協議も、別件遺産分割協議と同様、このような多額の遺産が別に存在しないことを前提として行われたものであり、X1・X2はその存在を知らずに協議したから、錯誤により無効である。

Y側の主張:X1・X2は、協議書に記載された財産以外にも、A・Bの遺産として預貯金・株式があることを認識していたのであり、錯誤はなかった。

裁判所の判断

判旨の要約

  • 結論:本件遺産分割協議に係るX1・X2の意思表示には要素の錯誤があり、本件遺産分割協議は無効である。
  • 理由:X1・X2は、Bが死亡当時保有していた全ての預貯金・株式の内容を知らないまま、Yが文面を作成した別件協議書にそのほとんどが記載されていると信じて署名しており、そのことはYとの間でも当然の前提となっていた。その後間もなくされた本件遺産分割協議の際にも、同様の錯誤があった。

判決文の引用

裁判所はまず、別件遺産分割協議について次のように述べました。

そうすると、原告らは、春子が死亡当時保有していた全ての預貯金及び株式の内容を知らないまま、被告が文面を作成した別件遺産分割協議書にはそのほとんどが記載されているものと信じて、これに署名なつ印したものというべきであり、別件訴訟において認定されたとおり、そのことは、被告との間においても当然の前提となっていたというべきであるから、別件遺産分割協議に係る原告らの意思表示には要素の錯誤があり、無効であるということができる。

そのうえで、本件遺産分割協議について次のように結論づけています。

そうだとすると、その後間もなくしてされた本件遺産分割協議の際にも、別件遺産分割協議と同様の錯誤が原告らにあったというべきであるから、本件遺産分割協議に係る原告らの意思表示には要素の錯誤があり、本件遺産分割協議は無効である。

(引用中の「春子」はB、「原告ら」はX1・X2、「被告」はYを指します。)

判例の考え方

本判決の判断は、次の3つの段階で整理できます。

第1に、錯誤の対象は「遺産の全容についての認識」です。 遺産分割協議は、どの遺産を誰がどのように分けるかを決める合意ですから、「遺産として何があるか」という認識はその出発点にあたります。本件でX1・X2が誤っていたのは、まさにこの点でした。協議書に記載されていたのは限られた預貯金と株式5銘柄だけで、Yが払い戻していた計4,330万円の預貯金と、6銘柄の株式の存在は明らかにされていませんでした。X1・X2は、Bの財産の全体を知らないまま、「協議書にそのほとんどが記載されている」と信じて署名していたのです。

第2に、その誤った認識が、Yとの間でも「当然の前提」となっていたという認定です。 改正前民法95条のもとでは、このような協議の前提となる事情の思い違い(いわゆる動機の錯誤)は、その事情が相手方に表示されて意思表示の内容になったといえる場合に、「要素の錯誤」として無効原因になり得ると扱われてきました。本判決が「被告との間においても当然の前提となっていた」と認定したのは、この前提の共有を示すものと整理できます。協議書の文面を作成したのはY自身であり、記載のない預貯金を払い戻していたのもY自身です。そのような状況でX1・X2に協議書を示して署名を求めた以上、「この協議書に遺産のほとんどが書かれている」ことは、あえて口にするまでもない前提だった、という評価です。なお、本判決が引用する別件訴訟の判決も、X1・X2の錯誤がYに「表示されていた」という言い方をしています。

第3に、同じ錯誤が二通目の協議に引き継がれるという処理です。 本件遺産分割協議は、別件協議書の作成の「後間もなくして」、登記手続上の不足を補うために作られたものでした。その間に、X1・X2が遺産の全容を知る機会はありません。裁判所は、二通目の協議書への署名の時点でも別件協議と「同様の錯誤」があったとして、本件遺産分割協議も無効と結論づけました。錯誤の有無はあくまで協議ごとに、その意思表示の時点を基準に判断されるものの、誤信の状態が続いたまま近接して作られた協議書には、同じ結論が及び得ることを示した処理といえます。

結論に至る処理

裁判所は、本件遺産分割協議の無効確認請求を認容しました。なお本判決は、あわせて、Yが主張した目黒の土地の2分の1の生前贈与を否定して同土地のB名義持分がBの遺産であることを確認し、Yが払い戻した預貯金等についての不当利得返還請求も一部認容していますが、これらは本稿の対象論点とは別の争点です。本件遺産分割協議が無効とされた結果、その対象であった財産については遺産分割がされていない状態に戻り、改めて分割の手続が必要になります。

判例の射程

本判例の射程について、判決文の表現に即して整理します。

遺産の全容を知らないまま署名したという事実関係を前提とした判断

本判決は東京地方裁判所の判決であり、個別の事実関係に即した事例判断です。錯誤の認定は、X1・X2が「全ての預貯金及び株式の内容を知らないまま」、Yが文面を作成した協議書に「そのほとんどが記載されているものと信じて」署名した、という認定の上に成り立っています。協議書に記載漏れがあれば常に錯誤無効となる、という一般的な準則を述べたものではありません。

また、記載されていなかった財産の規模も軽視できません。本判決の認定によれば、協議書に記載がなかったのは計4,330万円の払戻しに係る預貯金と6銘柄の株式であり、別件訴訟の判決もこれらを遺産のうち「大きな比重を占める」ものと位置づけていました。ごく軽微な記載漏れの事案に本判決の結論がそのまま及ぶかは、判決文からは読み取れません。

「当然の前提となっていた」という認定が結論を支えていること

本判決は、X1・X2の誤信を認定するだけでなく、そのことが「被告との間においても当然の前提となっていた」という認定を重ねています。一方の相続人が内心で思い違いをしていたというだけではなく、その認識が相手方との間でも前提として共有されていたと認められる事案についての判断であり、この前提共有の認定を欠く場合にまで当然に及ぶものではありません。

「その後間もなくして」された協議への引き継ぎ

本判決は、本件遺産分割協議が別件協議の「後間もなくして」されたことを指摘したうえで、「同様の錯誤」を認めています。時間的に近接し、誤信の状態に変化がなかったと認められる場合の判断であって、最初の協議が錯誤無効であれば後続のあらゆる合意が当然に無効になる、と述べたものではありません。

実務での使い方

本判例は、遺産分割協議の成立後に、協議書に記載のない多額の遺産が判明した場面で、協議の効力を争う側が引用できる裁判例です。相続の現場での使いどころを整理します。

使える場面

典型は、本件のような遺産を管理する相続人が協議書の文面を用意し、他の相続人は署名を求められただけという事案です。被相続人と同居していた相続人や、預貯金・賃貸物件の管理を任されていた相続人が遺産の情報を握り、他の相続人は協議書に書かれた内容を信じるほかなかった、という関係は、相続案件で繰り返し現れます。本判決は、そのような情報の偏りの下で署名された協議書について、錯誤による無効を認めた実例として機能します。

また、登記や税務申告のために複数の協議書が近接して作られた事案でも参考になります。一通目の協議の効力が否定されたとき、付随して作られた二通目以降の協議書の扱いが問題になりますが、本判決は、誤信の状態が続いている限り、二通目にも同じ錯誤が認められ得ることを示しています。

協議の効力を争う側

第1に、協議書に記載のない遺産の存在と規模です。預貯金は金融機関への取引履歴・残高証明の開示請求(相続人であれば単独で請求できます)、株式は証券保管振替機構への開示請求で口座のある証券会社等を特定する方法が、実務では用いられます。本件でも、X1・X2は調停申立て後の調査で計4,330万円の払戻しと記載外の株式を突き止めており、この客観資料が出発点になりました。

第2に、自分がその存在を知らなかったことです。「いつ・どのような経緯で知ったか」を特定できると、協議当時に知らなかったことの説明が自然になります。本件では、平成21年の調停申立て後の調査で初めて判明したという時系列が、協議書作成当時(平成18年)に知らなかったという認定を支えています。

第3に、「遺産のほとんどが協議書に記載されている」という前提が、相手方との間でも共有されていたことです。協議書の文面を作成したのが相手方であること、遺産を管理していたのが相手方であること、財産目録や裏づけ資料の開示がなかったこと、署名の経緯(本件では、X2は海外から送付を受けて署名しただけでした)などの事情を積み上げていきます。

なお、本判決は改正前民法95条の事案で、錯誤の効果は「無効」でした。現行民法(令和2年4月1日施行)では、錯誤の効果は「取消し」に改められています(民法95条1項)。遺産の範囲のような前提事情の思い違いは、その事情が法律行為の基礎とされていることが表示されていた場合に取り消せるものとされており(同条1項2号・2項)、本判決の「当然の前提となっていた」という認定は、現行法ではこの要件に対応する事実関係と整理できます。注意したいのは、取消権には期間制限があることです(追認をすることができる時から5年、行為の時から20年。民法126条)。現行法下の事案では、記載のない遺産に気づいたら速やかに動く必要があります。

協議の有効を維持したい側

逆に、協議の効力を維持する側から見ると、争いの急所は相手方の「不知」です。本件でYは、X1・X2が記載外の預貯金・株式の存在を認識していたと主張しましたが、これを裏づける証拠がなく、採用されませんでした。協議の当時に財産の全容を説明した事実、資料を開示した事実、相手方が遺産の内容を把握していた事実を、当時のやり取り(書面、メール等)で具体的に示せるかが分かれ目になります。

また、記載のなかった財産がごくわずかである場合には、協議の重要部分に錯誤はないという反論が考えられます。本判決は「大きな比重を占める」財産の記載がなかった事案であり、軽微な記載漏れまで同列に扱ったものではありません。

紛争予防の観点では、協議書を作成する側こそ注意が必要です。財産目録を添付し、残高証明等の裏づけ資料を相続人全員に開示したうえで署名を得て、その記録を残すという手順を踏んでおくことが、後日の錯誤主張(現行法では錯誤取消し)に対する最も確実な備えになります。

立証上のポイント

本件で結論を分けたのは、突き詰めると時系列と情報の偏りです。協議書の文面はYが税理士・司法書士に依頼して作成し、X1・X2は示された書面に署名しただけでした。記載のない預貯金を払い戻していたのはY自身であり、X1・X2がその事実を知ったのは、協議から約3年後の調査によってです。こうした事実の積み重ねが、「知らないまま署名し、そのことが当然の前提となっていた」という認定につながりました。

協議のやり直しを求める側は、協議書の作成過程(誰が文面を作り、どのような説明があったか)と、記載外財産の発覚の経緯(いつ・どのようにして知ったか)を、時系列に沿って具体的に主張・立証することが核心になります。

併せて検討すべき周辺論点

協議が無効(現行法では取消し)とされても、それだけで遺産が戻ってくるわけではありません。本件でも、X1・X2は、払い戻された預貯金等について不当利得返還請求を併せて行い、認容されています。協議の効力を否定する主張と、流出した遺産を金銭で取り戻す請求とは、セットで設計する必要があります。

また、協議の効力が否定されると、対象財産は遺産分割がされていない状態に戻りますから、改めて遺産分割協議を行い、まとまらなければ家庭裁判所の調停・審判で分け直すことになります。すでにされた相続登記の是正や、協議内容を前提に行った相続税申告の修正も視野に入れ、税理士・司法書士との連携を含めて手続全体を組み立てることが大切です。

さらに、相手方が記載のない財産の存在を知っていたといえる事案では、錯誤のほかに詐欺による取消し(民法96条)の構成を検討する余地もあります(本判決は詐欺の成否について判断したものではありません)。

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