【判例解説】遺産分割の代償金は審判確定まで相殺できないため、形式上、主文で支払いを命じる必要があると判断した事例(大阪高裁平成10年6月5日決定)

この記事のポイント
  • 争点:遺産をもらう代わりに支払う「代償金」を、相手への「貸付金」と審判内で相殺し、主文で「支払いなし」とすることは有効か?
  • 結論:裁判所は、代償金の支払い義務は審判が確定して初めて発生するため、審判主文(結論)には金額を明記しなければならないと判断した。
  • ポイント:実質的に相殺で「プラスマイナスゼロ」になる場合でも、法的な手続き上は明確に支払義務が記載される点を理解しておくことが重要。
目次

事案の概要

本件は、亡くなった両親の遺産をめぐり、兄弟間で争われた事例です。

主な登場人物とその関係

  • 被相続人(亡くなった方):父A・母B
  • 申立人・抗告人X(三男):不動産を取得しない代わりに、金銭(代償金)を求めて高等裁判所に不服を申し立てた人物。
  • 相手方Y(長男):実家の不動産を単独で取得し、その代償を支払う義務がある人物。

※次男も相続人でしたが、相続分をYに譲渡して手続きから脱退しています。

トラブルの経緯

経緯

父Aと母Bが亡くなり、大阪市内の不動産や預貯金が遺産となりました。

経緯

遺産分割の審判において、長男Yが不動産をすべて取得し、その代わりに三男Xへ「代償金」として約1,195万円を支払うという分割方法については、おおむね方向性が定まりました。

経緯

しかし、長男Yは、三男Xに対し、個人的に以下の債権(Xにとっての借金)を持っていました。

  • Xに対する貸金の判決に基づく債権(約802万円)
  • Xの借金をYが肩代わりして返済した立替金(725万円)
  • 合計約1,527万円(Xが受け取る代償金よりも多い金額)
経緯

長男Yは、「私が払う代償金(約1,195万円)は、Xが私に返す借金と相殺されるから、審判で現金の支払いを命じないでほしい」と主張しました。

経緯

第一審(家庭裁判所)はYの主張を認め、「相殺により代償金は消滅した」として、審判の結論部分(主文)で代償金の支払いを命じませんでした。

経緯

これに対し、法的な手続きの厳格さを求めた三男Xが不服を申し立てたのが本件です。

主な争点

遺産分割審判の確定前に、将来発生する「代償金」を借金と相殺処理することは認められるか?

通常、お互いに債務がある場合は「相殺」して清算するのが合理的です。第一審の家庭裁判所も「どうせ後で相殺するなら、今ここで解決した方が良い」と考えました。

しかし、今回のケースで法的問題となったのは「債務が発生するタイミング」です。

遺産分割の審判が終わっていない(確定していない)段階で、「将来支払うことになるはずの代償金」を、既にある借金と相殺して「代償金の支払いはなし」という審判を出すことができるかどうかが争点となりました。

裁判所の判断

大阪高等裁判所は、第一審(家庭裁判所)の判断を変更し、「長男Yは、三男Xに対し、代償金として1194万7403円を支払え」と命じました(大阪高裁平成10年6月5日決定)。

裁判所は、法的なロジックとして、次のように判断しました。

  1. 債務の発生時期
    遺産分割に伴う代償金の支払い義務(債務)は、遺産分割の審判が確定した瞬間に初めて法的に形成(発生)するものである。
  2. 相殺の不可
    審判を行っている最中は、まだ代償金債務は発生していない。まだこの世に存在しない債務を、今ある借金と相殺して「無かったこと」にすることはできない。
  3. 結論
    したがって、たとえ相殺する意思があったとしても、裁判所は、形式上、「YはXに代償金を支払え」という命令を主文に書かなければならない。

実質的な解決

「それだと、長男Yはお金を払わないといけないのか?」と疑問に思うかもしれませんが、裁判所は、以下のように補足し、「常識的な決着」を図っています。

“本件遺産分割審判が確定したときは、(中略)その確定と同時に上記予備的相殺の意思表示により直ちにその代償金債務と上記求償債権(抗告人の債務)とが対当額で消滅する効果が発生するから、相手方は、抗告人に対し、現実に代償金債務の履行を要するものではない。

つまり、「判決文(審判書)には『お金を払え』と書くルールだが、この審判が確定した瞬間に、裏で自動的に相殺(借金とチャラ)が行われることになる。だから、実際にYさんがXさんに現金を振り込む必要はない」ということです。

結果として、第一審と経済的な結論(Yは払わなくてよい)は同じですが、「法的な手順として、一度きちんと支払命令を出さなければならない」というルールを厳格に適用した判断となります。

弁護士の視点

この判例は、手続論のように見えますが、相続実務においては、非常に重要な教訓を含んでいます。

「審判」と「協議」の違いを理解する

裁判所が下す「審判」は、法律の厳格なルール(今回のような債務発生のタイミングなど)に縛られます。そのため、当事者同士なら「相殺でチャラにしよう」と簡単に合意できる話でも、審判手続になると「形式的には一度支払い命令を出す」といった複雑な処理が必要になります。

柔軟な解決を望むのであれば、審判に至る前の「遺産分割協議」や「調停」の段階で合意することをお勧めします。協議や調停であれば、「代償金と貸金を相殺する」という条項を自由に盛り込むことが可能です。

金銭の貸し借りは「証拠」が命

本件では、長男Yが借用書の判決や立替払いの明確な証拠を持っていたため、最終的に「相殺」が認められる前提となりました。

親族間であっても、金銭の貸し借りがある場合は、必ず契約書や振込履歴などの客観的な証拠を残しておくことが重要です。証拠がなければ、「あれは贈与だった」と言い逃れされ、相殺すら認められないリスクがあります。

将来の紛争を防ぐ遺言書の活用

親の立場として、子供たちの間にお金の貸し借りがあることを知っている場合は、遺言書で精算方法を指定しておくのも有効です。

「長男には不動産を相続させる。その代わり、長男が次男に対して有する貸金債権を免除することを条件とする」といった負担付遺贈を活用することで、死後の兄弟間トラブルを未然に防ぐことができます。

よくある質問(FAQ)

遺産分割協議書に「代償金と借金を相殺する」と書いても無効になるのですか?

いいえ、有効です。

今回の判例は、あくまで裁判所が強制的に決める「審判」という手続上のルールについて述べたものです。相続人全員が合意して作成する「遺産分割協議書」であれば、代償金と借金を相殺する旨を記載すれば、そのとおりの効力が発生し、現金のやり取りなしで解決できます。

相手が「昔貸した金があるから代償金は払わない」と言っていますが、証拠がありません。認められますか?

原則として認められません。

相手が相殺を主張するためには、「貸したお金を返してもらう権利(債権)」が法的に存在することを証明する必要があります。借用書や具体的な返済の合意がない場合、単なる口約束や「あげたもの(贈与)」とみなされ、相殺が認められない可能性が高いです。

相続人の一人が亡くなった親から借金をしている場合も、今回の話と同じですか?

いいえ、少し異なります。

亡くなった親への借金は、遺産そのものに含まれる債権として扱われたり、「特別受益(生前贈与)」として遺産の計算上で持ち戻されたりします。今回の判例のような「相続人同士(兄弟間)の個人的な貸し借り」とは処理の方法が異なりますので、区別して考える必要があります。

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