いきなり送られてきた遺産分割協議書は、相手からの提案書にすぎず、そのまま署名する義務はありません。一方で、一度署名・押印すれば協議は成立し、後から「安すぎた」と気づいても、やり直しは原則できません。ハンコを押す前に確認するのは3点。不動産が時価(実勢価格)で評価されているか、評価の時点が「いま」になっているか、生前贈与や使途不明金など目録の外にある問題が反映されているか。納得できなければ、査定書などの資料を提示して修正を求め、それでも進まなければ調停も検討します。
相談に来られたのは、亡くなったお母様の二女の方でした。実家に住む姉から郵便が届き、中には税理士名の入った遺産分割協議書と、「ここに実印を押して、印鑑証明書と一緒に返送してほしい」というメモ。協議書では、姉が実家を取得し、二女には代償金として数百万円を支払う内容になっていました。金額の根拠を尋ねても、「税理士が計算した数字だから間違いない」の一点張りだったといいます。
この「専門家が作ったから正しい」という一方的な主張が、まさに「争族」の入口となります。
なぜ「専門家が作った遺産分割協議書」でも鵜呑みにできないのか
その税理士に依頼したのは、遺産分割協議書を送ってきた相手方です。専門家は依頼者の意向に沿って書類を作るのが仕事ですから、内容が依頼者に有利な設計になっているのは、むしろ自然なことです。悪意の問題ではなく、立場の問題です。
もう一つ、税理士が使う数字には性質の違いがあります。相続税の申告に使う評価額と、相続人の間で公平に分けるための評価額は、目的も基準も別物です。申告用としては正しい数字が、遺産分けの基準としてはあなたに不利に働く。実務では、この二つの混同が代償金の額を大きく左右します。
だからこそ、ハンコを押す前に確認すべき事項も決まっています。
遺産分割協議書にハンコを押す前に確認すべき点
確認1:不動産は「時価」で評価されているか
財産目録の不動産評価額が、固定資産税評価額や相続税路線価に基づいているなら、そのまま合意すべきではありません。遺産分割で使う評価は時価(実勢価格。いま市場で売ったらいくらか)が原則です。
路線価は公示価格の8割程度、固定資産税評価額は7割程度の水準に設定されています。つまり路線価ベースの提示は、本来の価値より2〜3割低い前提で代償金が計算されている可能性があるということです。不動産を取得する側は、評価額を低く抑えるほど支払う代償金(不動産をもらう代わりに他の相続人へ払う調整金)が減ります。相手が路線価を使いたがる理由は、ここにあります。
都心のマンションのように市場価格と公的評価の乖離が大きい物件では、この差はさらに開きます。
確認2:評価の時点は「いま」になっているか
「亡くなった日の価格」で計算されていたら、そこも確認対象です。遺産分割における評価の基準時は相続開始時ではなく遺産分割時(現在)です。相続開始から協議書が届くまで数年経っていて、その間に地価が上がっているなら、直近の価格での再計算を求められます。
逆に下落局面では、相手から同じ主張が返ってくる可能性がありますので、基準時の議論は双方向であることを頭に置いてください。
確認3:遺産目録の「外」にある問題が反映されているか
遺産分割協議書に載っている遺産目録だけを見て、分け方が公平かどうかは判断できません。実務で揉めるのは、むしろ遺産目録の「外」です。ここでは三つの論点が同時に絡みます。
一つ目は生前贈与です。特定の相続人が住宅資金や開業資金などの援助を受けていたなら、特別受益(遺産の前渡し。民法903条)として持ち戻した上で計算し直すのが法律の原則です。
二つ目は使途不明金です。通帳を確認して、亡くなる前後に説明のつかない出金があれば、清算を求める余地があります。ここは時期で扱いが分かれます。相続開始後に引き出されたお金は、他の相続人の同意により遺産に戻して分割の対象にできます(民法906条の2)。生前の引き出しは遺産分割の枠外となり、不当利得などとして別途請求する形になります。
三つ目は寄与分です。相手が「介護をしたから多くもらう」と自分の取り分を上乗せしているケースがありますが、法律上の寄与分(民法904条の2)が認められるには「特別の寄与」という高いハードルがあります。身の回りの世話をした程度では、扶養義務の範囲内と評価されるのが実務の傾向です。介護日誌や要介護度などの裏付けなしに寄与分を上乗せしているなら、その数字に合意する必要はありません。
納得できないときの進め方
ハンコを押さない。ただし無視もしない
遺産分割協議書への署名・押印を保留し、「内容を確認しているので時間が欲しい」とだけ伝えます。印鑑証明書を先に渡すのも避けてください。
こちらの主張を裏付ける資料を取得する
不動産は複数の不動産会社に無料査定を依頼し、時価の根拠となる査定書を確保します。あわせて被相続人の通帳の取引履歴を取り寄せ、生前贈与や不審な出金がないかを見ます。
書面で修正案を送る
「提示額は路線価ベースで、査定による時価(○○万円)と乖離があるため、時価を基準に再計算を求める」と、根拠を添えて伝えます。感情ではなく数字で返すのが、話を前に進める近道です。評価額で折り合えない場合、最終的には不動産鑑定士の鑑定という手段もありますが、費用がかかるため、まずは複数査定の平均値あたりで着地を探るのが実務的です。
交渉が進まなければ調停も検討する
相手が「専門家が決めた数字だ」と譲らないなら、当事者間の交渉には見切りをつけ、家庭裁判所の調停に移行します。調停では、時価評価や特別受益・使途不明金の主張を手続きの土俵に乗せて整理できます。
やってはいけないこと・よくある失敗
「とりあえずハンコは押して、金額は後で交渉」は最悪
署名・押印後に遺産分割協議を覆すには錯誤取消しなどの主張が必要になりますが、認められる場面はかなり限られます。交渉はハンコを押す前にしかできません。
根拠を示さずに拒否しても揉めるだけ
「安い気がする」だけでは、相手を説得することはできません。査定書という客観資料を先に取る。この一手間の有無で、その後の交渉の質が変わります。
通帳や取引履歴を確認しないと見落としリスクが生じる
遺産分割協議書の土台となる遺産の範囲そのものが正しいか、通帳や取引履歴で裏を取ってから金額の話に入る方が安全です。

