【判例解説】遺産の全貌を知らされずに署名した遺産分割協議を無効とした事例(東京地裁平成27年4月22日判決)

遺産の全貌を知らされずに署名した遺産分割協議を無効とした事例

判例の基本情報

  • 裁判所:東京地方裁判所
  • 判決日:平成27年4月22日
  • 事件番号:平成25年(ワ)8188号
  • 事件名:不当利得返還等請求事件
  • 結論:一部認容・一部棄却。二つの遺産分割協議は、いずれも要素の錯誤により無効。
目次

結論

本判決(東京地裁平成27年4月22日判決)は、相続人の一部が作成した協議書を「遺産のほとんどが記載されている」と信じて署名したケースで、重要な預貯金や株式が漏れていたため、要素の錯誤(合意の土台の取り違え)を認定し、当該遺産分割協議を無効としました(現行法では「取消し」)。同判決は、直後に行われた関連協議にも錯誤が波及すると判断しています。

事案の概要

  • 相続関係:被相続人(母)Bの相続人は長男・長女・二男。二男が協議書の文面を作成し、他の相続人は「ほとんど全部が載っている」と信じて署名。
  • 第1回協議(別件):預貯金や株式の一部のみ記載。後に計4,330万円の預貯金払戻しと、複数銘柄(新日鉄・東京電力・三井物産・三菱商事・キリン・コニカ等)の未記載株式が判明。
  • 第2回協議(本件):第1回の直後、建物の相続登記を目的とする協議書を再作成・署名。

判決の要旨

「原告らは、春子が死亡当時保有していた全ての預貯金及び株式の内容を知らないまま、被告が文面を作成した別件遺産分割協議書にはそのほとんどが記載されているものと信じて、これに署名なつ印したものというべきであり、別件訴訟において認定されたとおり、そのことは、被告との間においても当然の前提となっていたというべきであるから、別件遺産分割協議に係る原告らの意思表示には要素の錯誤があり、無効である」

「そうだとすると、その後間もなくしてされた本件遺産分割協議の際にも、別件遺産分割協議と同様の錯誤が原告らにあったというべきであるから、本件遺産分割協議に係る原告らの意思表示には要素の錯誤があり、本件遺産分割協議は無効である」

裁判所は、「遺産の同定(全体像)」が誤っていた点を重視しました。単なる金額のズレではなく、協議の対象範囲そのものを取り違えたため、要素の錯誤に当たると判断。さらに、その「ほぼ全部が記載」という前提は文案作成者と他の相続人の間で共有されていた(=相手方への表示)と評価され、直後の建物協議にも同じ錯誤が及ぶとされました。

重要論点の解説

核心は「遺産の同定(全体像)」を誤る錯誤

本件は、預貯金4,330万円や多数の株式が協議書から漏れた状態で「ほとんど記載」と誤信して合意した点が決定打でした。範囲の取り違えは合意の土台の錯誤に直結します。

  • なぜ重要か:不動産だけ先行で合意しがちでも、後から金融資産の漏れが判明すると合意全体の有効性が揺らぐ。
  • 参考になる場面:口座・証券が複数機関に分散し、配当・賃料などの収益履歴が追えていないケース。

「相手方への表示(前提の共有)」がポイント

「ほとんど全部が載っている」という前提が、文案作成者にも共有されていたと認定されました。協議書の体裁や進め方から、相手にも当然の前提として伝わっていたと評価されたのです。

  • なぜ重要か:相手が錯誤を知り又は知り得た場合、表意者の重大な過失があっても取消しが認められ得るため、前提共有の事実認定が勝負所になります。

2回目以降の協議にも波及する

第1回協議の錯誤が解消されないまま関連部分だけ再協議をしても、同じ錯誤が残っていれば、同様に無効(現行法なら取消し)となります。本件では、建物に関する再協議(本件協議)にも無効判断が及びました。

改正民法(現行法)での位置づけ

本判決は、改正前民法95条(錯誤=無効)下の事案ですが、現行法では錯誤=取消し。もっとも、判断枠組み(遺産の同定/前提の共有)は実務でそのまま有用です。

実務におけるポイント

遺産分割協議前のフルスコープ調査(漏れを作らない)

  • 預貯金:全行の残高証明+取引履歴(死亡前後)
  • 有価証券:証券会社ごとの残高・配当履歴(名義・保管形態も確認)
  • 不動産:名寄帳・固定資産税通知・賃料収入の有無
  • 保険・年金・未収金:解約返戻金・死亡保険金の帰属
  • 過去の申告控:配当・不動産所得の痕跡から資産を逆引き
  • 郵便物・通帳束:旧姓・家族名義口座の痕跡確認

本件のように重大な未記載が生じると、錯誤→やり直しの争いに発展しやすいです。

遺産分割協議書の文言設計(前提を明示してリスクを限定する)

  • たとえば、「本協議は別紙目録記載の遺産を対象とし、新たに遺産が判明した場合は別途協議する」という文言を入れる。
  • 逆に、断定的な「記載外は存在しない」という条項は、後に漏れが発覚した際、錯誤争いの火種になる。

情報の非対称を作らない進め方

  • 通帳・証券・評価資料は同時・同量で共有する。
  • 草案は共同で編集・確認する。作成者一人に依存した文面は、前提共有の認定を招きやすい(本件型)。

段階的分割をする際の設計

  • 把握済み財産で一次協議→未把握分は追加協議。期限・手順・資料範囲をあらかじめルール化する。

読者に対するアドバイス

  • 遺産分割協議書に署名・押印する前に、遺産目録の内容・網羅性を客観資料(残高証明書・名寄帳・相続税申告書案)で確認する。
  • 家族名義・旧姓口座の痕跡を確認する(通帳・郵便物・古いメモ)。
  • 遺産分割協議書に署名・押印をした後、遺産の漏れが判明したら、まずは再協議。協議で解決困難なら、錯誤(現行法は取消し)の主張と法的手続を検討(本件は2件の協議が無効)。

まとめ

  • 要点1:重要財産の未記載が複数ある遺産分割協議は、要素の錯誤により無効(現行法では取消し)となり得る。
  • 要点2:「ほとんど全部が記載」という前提の共有があったかどうかが核心。
  • 要点3:錯誤は後続の部分協議にも波及し得る。

FAQ(よくある質問)

遺産分割協議書に漏れが見つかったら、当然に無効になりますか?

状況次第です。遺産の全体像を誤って合意したなど、要素の錯誤が認められると無効(現行法は取消し)となり得ます。まずは資料で漏れの事実と前提の共有を整理しましょう。

錯誤の取消しには期限がありますか?

現行民法では、取消権に期間制限があります(追認可能時から5年、行為時から10年)。早期に証拠保全と関係者の前提確認を行うのが安全です。※本判決は旧法下の無効判断。

不動産だけ先に遺産分割をするのは危険ですか?

他の重要財産の把握が不十分なまま不動産だけ合意すると、後で漏れが発覚した際に、合意全体の有効性が争われやすくなります。本件でも、後続協議に波及しました。

遺産分割協議書に「新たに遺産が判明した場合は別途協議する」と書けば安心ですか?

有効なリスク低減策にはなりますが、重大な未記載があるのに「ほぼ全部」の前提で合意していると、錯誤主張の余地は残ります。事前調査+前提の明示をセットで。

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