賃貸人の死亡と敷金返還債務の承継──賃貸物件を相続した者が承継するとした事例|大阪高判令和元年12月26日
賃貸人が死亡した場合、敷金返還債務はどの相続人に承継されるのでしょうか。本判決は、敷金に関する法律関係は賃貸借契約に随伴するものであり、賃貸人たる地位の承継があれば敷金に関する法律関係も新賃貸人に当然に承継されること、その承継は賃貸物件の売買等による特定承継と相続による包括承継とで取扱いを異にしないことを明確に示しました。あわせて、相続人らが提出した相続税申告書に法定相続分に応じた負担割合の記載があり、特定の相続人がこれに異議を述べなかったとしても、それだけで分割承継の合意成立を認めることはできないと判断しています。
判例情報
- 裁判所:大阪高等裁判所第12民事部
- 判決日:令和元年12月26日
- 事件番号:令和元年(ネ)第1932号
- 関連条文:民法605条の2第4項、622条の2、借地借家法31条/(本件当時)改正前民法601条、605条
事案の概要
本件は、建物賃貸人の死亡後、賃貸建物を相続しなかった相続人に対して、賃借人が敷金の法定相続分相当額の返還を求めたところ、賃貸建物を相続した者が敷金返還債務を承継するとして、請求が斥けられた事案です。原審がXの請求を棄却したため、Xが控訴したのが本件です。
登場人物
- X(賃借人・控訴人・原告):本件建物を賃借していた株式会社。代表取締役はA。
- B(被相続人・元賃貸人):本件建物の元賃貸人。Aの父。平成26年5月11日に死亡。
- A(Bの長男):Xの代表取締役を務める。Bの死亡により本件建物に係るBの持分を相続。
- Y(Bの長女・被控訴人・被告):Bの相続人の一人。賃貸建物を相続していない。
- D・E・F・G:Bのその他の相続人。賃貸建物を相続していない。
時系列
- 平成元年12月8日:本件建物の購入(B・Aの共有)、本件賃貸借契約締結、Xから敷金3000万円差入れ
- 平成26年5月11日:B死亡
- 平成26年6月:相続人らの代理人による協議開始
- 平成27年1月23日:相続税申告に向けた相続人らの代理人ら協議
- 平成27年3月11日:相続税申告書提出(敷金返還債務を法定相続分で負担する旨の記載あり)
- 同年7月13日:相続税修正申告書提出
- 平成29年4月30日:本件賃貸借契約合意解約・賃借物件明渡し
- 平成30年4月:本件訴訟提起
経緯
本件建物は、平成元年12月8日に当時の所有者から購入されました。BとAが共有持分(B側96/116、A側20/116)を取得し、同日、BとAを賃貸人、Xを賃借人とする本件賃貸借契約が締結されています。賃料は月額250万円、敷金は3000万円とされ、敷金についてはXのBに対する貸付金3000万円を振り替える形で処理されました。
平成26年5月11日にBが死亡しました。Bは韓国籍を有しており、韓国民法の定めによれば、相続人はYやAを含む6名で、Y・A・Dの法定相続分は各28分の7、その他の相続人は各28分の3または28分の2です。本件建物に係るBの持分については、相続人らの間で裁判上の和解が成立し、Aが取得することになりました。これにより、Aが本件建物の単独所有者となっています。
その後、相続人らは相続税の申告に向けて協議を続け、平成27年1月23日には相続人らの代理人弁護士らが税理士を交えて協議を行いました。最終的に、平成27年3月11日に提出された相続税申告書には、敷金返還債務(以下「本件債務」といいます)について、各相続人が法定相続分に従って負担する旨の記載(以下「本件記載」といいます)が含まれていました。
本件賃貸借契約は、平成29年4月30日に賃貸人側との間で合意解約され、Xは同日に明渡しを完了しています。賃貸人側からは、未払賃料や原状回復義務不履行の指摘はありませんでした。Y以外の相続人は、その後、Xに対して各人の法定相続分相当額の支払いを行いましたが、YはXに対する敷金返還債務を負わない立場をとり、Xから提訴されるに至りました。
争点
本件には、敷金返還債務の承継の在り方を巡って、二つの争点があります。
争点1:賃貸人の相続により、敷金返還債務は法定相続分に応じて当然分割されたか
争点の本質的な問い:金銭債務である敷金返還債務は、相続により法定相続分に応じて当然に分割される(可分債務の当然分割)という原則の対象となるのか。それとも、賃貸借契約に随伴して、賃貸物件の所有権を相続した者だけが承継するのか。
X(賃借人)は、敷金返還債務は金銭債務であり、相続による包括承継の場合は、可分債務を当然分割とすることで、相続人の中の無資力者に債務全額が承継される事態を防止し、賃借人(=相続債権者)を保護すべきであると主張しました。
これに対しY(賃貸建物を相続しなかった相続人)は、敷金は賃貸借契約に密接不可分に関連し、これに随伴するものであって、これを離れて独立に存在する意義を有しないと主張しました。本件建物の所有権は相続によりAに移転している以上、敷金返還債務もAに帰属しているのであり、Yは法定相続分に応じて敷金返還債務を承継してはいないという立場です。
争点2:相続人らの間で、敷金返還債務を法定相続分に従って分割承継する旨の合意が成立したか
争点の本質的な問い:相続税申告書に各相続人の負担割合が記載され、Yがこれに異議を述べなかったことをもって、相続人間で分割承継の合意が成立したと認めることができるか。
X(賃借人)は、平成27年1月23日の協議で、Aの代理人弁護士が敷金返還債務の漏れを指摘し、税理士から法定相続分割合で承継すべきとの意見が他の相続人らの代理人にも説明され、これに同意があったと主張しました。さらに、最終的に本件記載のある相続税申告書が作成・提出された事実に加え、Y以外の相続人がそれぞれ法定相続分相当額をXに支払った事実もあると指摘し、合意の成立は明らかであると主張しています。
これに対しY(賃貸建物を相続しなかった相続人)は、相続人らの代理人弁護士間では本件債務の分割承継について話し合われたことすらないと反論しました。相続税申告書に本件記載があることは認めるものの、申告期限が迫る中で異議を述べなかったというだけで、相続人間で分割承継合意が成立していたとはいえないという主張です。
裁判所の判断
裁判所は、原審と同じく、Xの請求は理由がないと判断し、控訴を棄却しました。理由の中核は、敷金に関する法律関係は賃貸借契約に随伴するものであり、相続による包括承継の場合にも、賃貸物件を相続した者が敷金返還債務を当然に承継するという点にあります。
判決文の引用
争点1について、判決は次のように述べています。
敷金は、賃貸人が賃貸借契約に基づき賃借人に対して取得する債権を担保するものであるから、敷金に関する法律関係は賃貸借契約と密接に関係し、賃貸借契約に随伴すべきものと解されることに加え、賃借人が旧賃貸人から敷金の返還を受けた上で新賃貸人に改めて敷金を差し入れる労と、旧賃貸人の無資力の危険から賃借人を保護すべき必要性とに鑑みれば、賃貸人たる地位に承継があった場合には、敷金に関する法律関係は新賃貸人に当然に承継されるものと解すべきである。そして、上記のような敷金の担保としての性質や賃借人保護の必要性は、賃貸人たる地位の承継が、賃貸物件の売買等による特定承継の場合と、相続による包括承継の場合とで何ら変わるものではないから、賃貸借契約と敷金に関する法律関係に係る上記の法理は、包括承継の場合にも当然に妥当するものというべきである。
争点2について、判決は次のように述べています。
平成27年1月23日に相続人らの代理人らが集まった際、本件債務について承継割合を含めた具体的協議がされたとは認められず、相続人らから本件記載のある相続税申告書に異議が述べられなかったことをもって、本件債務を法定相続分に従って分割承継するとの合意が成立したと認めることはできない。
被控訴人以外の相続人らが本件債務について各人の法定相続分相当額を支払った事実があるとしても、その経緯や理由は明らかでない上、たとえ被控訴人以外の相続人らが控訴人との間で本件債務を法定相続分に従って承継・負担する旨約したからといって、被控訴人にその効果が及ぶものでないことは多言を要しない。
判例の考え方
本判決の中核は、敷金の法的性質を、賃貸借契約から独立した金銭債務ではなく、賃貸借契約に随伴するものと位置づけた点にあります。判決はこの位置づけを前提に、賃貸人たる地位に承継があれば敷金に関する法律関係も新賃貸人に承継されるという、特定承継について確立されてきた法理を、相続による包括承継の場面にも及ぼしました。
判決はその実質的な根拠として、二つの点を挙げています。一つは、賃借人にとって、旧賃貸人から敷金の返還を受けたうえで新賃貸人に改めて敷金を差し入れるという手間を避ける必要性です。もう一つは、旧賃貸人の無資力の危険から賃借人を保護する必要性です。
これに対しX側は、相続による包括承継では金銭債務を当然分割とすることで、相続人の中に無資力者がいた場合に債務全額がその者に承継される事態を防げる、と反論しました。判決はこの反論についても、賃借人にとって賃貸人の相続人を探索する手間が看過できないこと、新賃貸人には敷金返還債務の引当てとなる賃貸物件があるのに対し、賃貸物件を相続しなかった他の相続人の資力は賃借人にとって不明であり、その無資力の危険を賃借人に負わせることになる点でも採用できない、として斥けています。
合意の成立については、相続税申告のための協議が行われた時点で本件債務についての具体的な協議がなされていなかったこと、相続税申告書に本件記載があったとしてもそれだけでは合意成立の認定に足りないこと、Y以外の相続人がXに法定相続分相当額を支払ったとしても、その効果は当然にはYには及ばないこと、を順に述べて否定しています。相続税申告書に分割の記載があるということは、税務上の処理として申告するという限りでの了承にとどまり、賃借人との関係で各相続人が分割承継の意思表示をしたことと同視できないという理解です。
結論に至る処理
本件では、Bの死亡によって本件建物に係るBの持分はAが相続し、Aが本件建物の単独所有者となりました。これにより、本件賃貸借契約における賃貸人たる地位もAのみが承継し、敷金返還債務もAが承継することになります。Yは賃貸建物を相続していないため、敷金返還債務を承継していません。
また、相続税申告書の本件記載や、Y以外の相続人によるXへの支払いをもって、Yを当事者とする分割承継合意の成立を認めることもできません。
したがって、Yに対する敷金返還請求は理由がないとされ、これと同旨の原判決が維持されて、控訴が棄却されました。
判例の射程
本判例の射程について、判決文の表現に即して整理します。
第一に、本判決は、賃貸人の死亡により賃貸建物を単独で相続して所有者となった者がいる事案を直接の対象としています。判決は「賃貸人たる地位に承継があった場合には、敷金に関する法律関係は新賃貸人に当然に承継される」「賃貸物件の売買等による特定承継の場合と、相続による包括承継の場合とで何ら変わるものではない」と述べており、賃貸人たる地位の承継一般について、特定承継と包括承継を区別しない判断を示しています。
第二に、判決は本件の構図のもとで、賃貸建物を相続した者(本件のA)が敷金返還債務を承継し、賃貸建物を相続しなかった他の相続人(本件のY等)は法定相続分に応じて当然に承継するわけではない、ということを示しています。なお、賃貸建物が複数の相続人による共同相続となった場合の敷金返還債務の帰属については、本判決が直接判断したところではありません。
第三に、合意による分割承継の認定については、相続税申告書における負担割合の記載と、それに対する異議不存在のみでは合意成立の認定には足りないことを示しています。Y以外の相続人がXに対して法定相続分相当額を支払った事実があっても、その効果は当然にはYには及ばないとも述べています。これらは、相続人間で敷金返還債務の分担を合意したと認めるためには、承継割合を含めた具体的協議の存在が必要になることを示唆する判断と読めます。
なお、本件は本件賃貸借契約が改正前民法下で締結された事案ですが、その後の令和2年4月1日施行の改正民法605条の2第4項は、賃貸人たる地位の移転に伴って敷金が新賃貸人に承継されることを明文化しており、本判決の判断はこの改正後の規律とも整合的です。
実務での使い方
本判決は、賃貸人が死亡した場合に、賃借人が誰に対して敷金返還を求めるべきか、また、相続人としてはどのような場合に敷金返還債務を負うのかという、相続実務でしばしば問題となる場面で重要な指針となります。争族実務における典型的な使いどころを整理します。
使える場面
最も典型的な場面は、賃貸不動産を所有する被相続人が死亡し、賃借人が敷金の返還時期に直面したケースです。賃借人としては、退去に際して敷金返還請求の相手方を特定する必要があります。本判決の枠組みによれば、まず確認すべきは賃貸建物の登記の動きです。相続を原因として賃貸建物の所有権がどの相続人に移転しているかが、敷金返還債務の帰属を決める出発点になります。
相続人の側では、賃貸不動産を取得した者は敷金返還債務を一身に負うことになりますし、逆に賃貸不動産を取得しなかった者は、原則として敷金返還債務を負わないことになります。遺産分割協議や遺言で賃貸不動産の取得者を決める段階で、この点を意識して評価と分配を行う必要があります。
賃借人(返還請求する側)の論点
賃借人として敷金返還を求める場合、まずは賃貸建物の現在の所有者を特定し、その者を相手方として請求するのが基本です。本判決の枠組みでは、賃貸建物を相続していない相続人に対して法定相続分相当額を請求する構成は、原則として認められません。
例外的に相続人間で分割承継の合意があった場合には、その合意を前提とする請求もあり得ますが、本判決が示すとおり、相続税申告書の負担割合の記載があるだけでは合意の成立は認められません。承継割合を含めた具体的な協議の存在を立証する必要があります。
また、相続発生から賃貸借契約終了までの期間が長い場合、賃貸建物の所有者がさらに譲渡や再相続によって変動している可能性もあるため、登記の沿革を確認したうえで、現に賃貸人の地位にある者を相手取ることが重要です。
賃貸建物を相続しなかった相続人(請求を受ける側)の論点
賃貸建物を相続していない相続人に対して敷金返還請求がなされた場合、本判決の射程に依拠して、敷金に関する法律関係は賃貸建物を相続した者に承継されるのであって、自分は債務を負わない、と主張するのが基本線になります。
仮に他の相続人が賃借人に対して法定相続分相当額を支払っていたとしても、本判決が明示するとおり、その効果は当然にはご自身に及びません。相続人ごとに、合意の有無は独立に判定されるという立場が示されています。
ただし、ご自身が分割承継合意に同意していると認定されかねない事情がある場合(協議への積極的参加、書面による具体的合意、賃借人との直接のやりとり等)は別の判断となり得ますので、過去の交渉経緯を慎重に整理する必要があります。
賃貸建物を相続した相続人(請求を受ける側)の論点
賃貸建物を相続した相続人は、敷金返還債務をすべて承継することになります。賃貸建物の評価をする際には、敷金返還債務という潜在的な負債を抱える状態であることを踏まえて、遺産分割協議における代償金の調整や、他の相続人との衡平を検討する必要があります。
特に、賃貸不動産が高額で、敷金額も多額である場合(本件は敷金3000万円)、敷金返還債務の負担が遺産分割の経済的バランスに大きく影響します。賃貸不動産の取得者が、その経済的価値だけでなく、敷金返還債務の引受けという負担も考慮した形で取得することになる、という整理を、協議の早い段階で共有しておくのが望ましいといえます。
立証上のポイント
賃借人の立場で敷金返還請求を行う場合、賃貸建物の登記事項証明書、相続関係を示す戸籍を取得し、現に誰が賃貸人の地位にあるかを確定させることが第一歩です。被相続人名義のままの登記が残っている場合は、相続人代理人を通じた確認が必要となります。
分割承継合意の成立を主張立証する場合、相続税申告書の本件記載のような書面は重要な間接証拠となりますが、本判決のとおり、それだけでは足りません。相続人らの代理人会議の議事録、メール、覚書、合意書、各相続人と賃借人との間の直接のやりとりを併せて主張立証する必要があります。協議が複数回行われている場合は、各回の議題と合意内容を時系列で整理することが有効です。
賃貸建物を相続しなかった相続人として防御する場合、自分が当該合意に関与していないこと、協議の場で具体的に合意の意思表示をしていないこと、他の相続人による支払いは独立した行為であってその効果が自分に及ぶものではないことを主張することになります。本判決の判旨は、こうした主張の支柱として機能します。
併せて検討すべき周辺論点
第一に、改正民法605条の2第4項との関係です。令和2年4月1日施行の改正民法は、賃貸人たる地位の移転があったときに敷金が新賃貸人に承継される旨を明文化しました。この規律は、特定承継・包括承継のいずれにも妥当すると解されており、本判決の判断はこの改正後の規律とも整合的です。改正民法施行後の事案では、同条項を直接の根拠としつつ、本判決の理解を参考とする形になります。
第二に、賃貸建物が共同相続される場合の取扱いです。本件は賃貸建物が単独相続された事案ですが、遺産分割が長期間まとまらない場合や、明示的に共有とする遺産分割がなされた場合には、複数の相続人が賃貸人の地位を共同で承継する可能性があります。この場面の敷金返還債務の帰属については、本判決が直接判断したところではないため、別途の検討を要します。
第三に、遺産分割協議における敷金返還債務の扱いです。賃貸不動産の取得者が敷金返還債務を引き受けることを前提に評価額を調整する、あるいは代償金を調整するなどの処理を、遺産分割協議書に明記しておくことが、後々の紛争予防に資します。本判決の理解を踏まえて、賃貸不動産の取得者が敷金相当額の負担を含めて遺産分割の対象としていることを文言化しておくことが望まれます。

